終電のホームは、いつもどこか静かだった。
昼間は人の波に押し流されるような駅も、この時間になると、まるで別の場所のように感じられる。電光掲示板の表示は残りわずか。発車時刻を知らせる数字が、冷たく光っていた。
俺はベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。
「間に合った……」
仕事は予定より長引いた。上司に呼び止められ、資料の修正を頼まれ、気づけば時計は終電ギリギリ。あのまま残っていたら、帰れなかっただろう。
スーツの襟を緩め、ネクタイを少しだけ外す。冬の夜気が、首元から入り込んできて、じんわりと冷たかった。
ホームには数人しかいない。
スマートフォンを見つめる若い男、壁にもたれて眠りそうな中年のサラリーマン、そして、少し離れた場所に立つ一人の女性。
黒いコートを羽織り、長い髪をゆるくまとめている。どこか疲れたような、でも凛とした空気をまとっていた。
ふと目が合った。
ほんの一瞬だけ。
すぐに視線を逸らしたが、妙にその人の存在が気になった。
――ガタン。
遠くから、電車の近づく音が聞こえてくる。
終電だ。
この電車に乗り遅れれば、今日はもう帰れない。
誰もがそれを知っているからか、ホームの空気が少しだけ張り詰める。
やがて、ヘッドライトが闇を切り裂き、電車が滑り込んできた。
扉が開く。
俺は人の流れに紛れて乗り込んだ。
車内は空いていた。
座席は半分ほど埋まっているだけで、立っている人はほとんどいない。
俺はドア付近に立ち、ポールに軽く手を添えた。
さっきの女性も同じ車両に乗っていた。
少し離れた位置で、つり革を握っている。
なんとなく、また視線が合う。
今度は少しだけ長く。
彼女は、わずかに笑った。
気のせいかもしれない。
でも、その笑みは確かにあった。
電車が動き出す。
規則的な振動が、身体に伝わってくる。
夜の車窓は黒く、時折、街の灯りが流れていく。
まるで時間が引き延ばされているような、不思議な感覚だった。

「……お疲れ様です」
不意に、声をかけられた。
顔を上げると、さっきの女性がすぐ目の前に立っていた。
「え?」
思わず間の抜けた声が出る。
「さっき、同じホームにいましたよね」
「あ、はい……」
「なんとなく、同じ人だなって」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
「終電、間に合ってよかったですね」
「ほんとに……ギリギリでした」
「私もです」
短い会話。
でも、妙に心が軽くなった。
知らない誰かと、ほんの少し言葉を交わすだけで、こんなにも救われるものなのかと、少し驚いた。
電車は次の駅に止まる。
数人が降り、さらに車内は静かになる。
彼女は隣の席に座った。
「座らないんですか?」
「いや……なんか、もう少し立っていたくて」
「変わってますね」
「よく言われます」
彼女はクスッと笑った。
「私も、ちょっと変わってるかもしれません」
「どういうところが?」
「こうやって、知らない人に話しかけちゃうところ」
「確かに……普通はしないですね」
「でも、終電って特別な感じがしません?」
彼女は窓の外を見ながら言った。
「特別?」
「はい。一日の最後の電車で、今日っていう時間の終わりみたいで」
その言葉に、俺は少しだけ考える。
確かにそうかもしれない。
終電は、ただの移動手段じゃない。
今日という一日を締めくくる、最後の線。
「……終わり、か」
「でも、終わりって、次の始まりでもありますよね」
彼女はそう言って、こちらを見る。
その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「今日が終わるから、明日が来る」
「ポジティブですね」
「そうでもないですよ」
彼女は首を振る。
「今日、すごく嫌なことがあって」
「……そうなんですか」
「でも、このまま終わりにしたくなかったんです」
だから、終電に乗ったのだと。
その言葉は、どこか不思議だった。
終電に乗ることが、何かを変えるわけじゃない。
でも彼女は、それでもここに来た。
「あなたは?」
「俺は……ただ、帰るだけです」
「それでもいいと思います」
彼女は優しく言った。
「ちゃんと帰るって、大事なことですから」
電車はまた走り出す。
揺れが少し強くなる。
彼女の肩が、わずかに触れた。
その距離が、妙に現実味を帯びていた。
「次、私の降りる駅です」
アナウンスが流れる。
彼女は立ち上がった。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
「また、どこかで会えるといいですね」
そう言って、彼女は扉の前に立つ。
電車が減速する。
ホームの光が差し込む。
扉が開く。
彼女は振り返り、軽く手を振った。
そして、そのまま人の流れの中に消えていった。
扉が閉まる。
電車は再び動き出す。
俺はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
たった数分の会話。
名前も知らない。
連絡先も知らない。
それでも、確かに何かが残っていた。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面には、日付が変わる直前の時間が表示されている。
今日が終わる。
でも、彼女の言葉が頭に残る。
――終わりは、始まり。
窓の外を見る。
暗闇の中に、次の駅の灯りが見えてくる。
俺は深く息を吸った。
そして、少しだけ背筋を伸ばした。
終電は、ただの帰り道じゃない。
一日の終わりと、次の日への境界線。
さっきまでの疲れが、少しだけ軽くなっていることに気づく。
電車は、静かに走り続ける。
やがて、俺の降りる駅が近づいてきた。
扉が開く。
ホームに降りると、夜の空気が頬を撫でた。
振り返る。
終電がゆっくりと発車する。
その光が、遠ざかっていく。
まるで今日という時間を乗せて、どこかへ運んでいくように。
俺は歩き出した。
静かな夜道を。
新しい明日に向かって。
終電の記憶を胸に抱きながら。

